藤はなの窓
Column

2018.6.22
奈良のにわ・京都の庭園

奈良と京都の歴史的な文化財や伝統的な寺社を頻繁に巡っておられる方々であれば、すでにお気づきだとは思いますが、
この二つの古都の間では、建築と庭園の関係について決定的な違いを見て取れます。
実際のところ、相手がよほどのマニアでないかぎり、奈良にある○○の庭を見に行く・・・というようなことはあまり耳にしないでしょう。奈良では、寺院の建築と対をなす庭園の存在感がそれほどまでに希薄なのです。
一方、京都はといえば、これはもう山水都市の名をほしいままにする名庭の宝庫で、その多くが寺社の境内にあります。
では、どうしてこのような違いがあるのでしょうか。

IMG_1305 2.jpg平城京と平安京、いずれも盆地につくられた都市であることにかわりはないのですが、ひとつの大きな違いは水の存在です。
寡雨(降水量が比較的少ない)地帯であるために古来より水が不足しがちな奈良盆地に対して、三方を深い山々に囲まれた山紫水明の地である京都は、名園が成立するための重要な条件である水に恵まれています。
中世から近世にかけて、庭園は林泉と称されていたことでもわかるように、緑と水は切っても切れない関係にあったのです。
しかしこれだけでは、二つの古都にある寺院の庭園を説明するには少し足りないところがありそうです。

その足りない部分を補うのが、おそらくは、奈良時代の仏教と平安時代の仏教の性格の違いに根ざすところではないかと思われます。ご存知のように、奈良時代の仏教には「鎮護国家」の役割が期待されていましたから、寺院は経典にもとづく哲学追求の場であり、境内は祈禱の庭(ば)であったわけです。
寺院の多くは平地につくられ、伽藍を構成する仏塔や金堂、講堂などを除いた残りの土地には平坦な地面がひろがるだけで、
そこに池を穿ち木々を植えた庭園の造形はほどこされませんでした。文字通りの「ば=にわ」がひろがっていたのです。

しかし平安時代にはいると、仏教の関心事は国家の安寧から個人の救済へとシフトし、人間の内面を深く追求する姿勢をもちはじめます。経典の学習よりも、自己と対峙するための環境を求めて修行の場を自然の中へと移しはじめる僧が現れ、
鎌倉時代にかけては、彼らがその主流となりました。
そしてその多くが周囲の自然に目をむける態度を示すようになったのは、ある意味で必然であったかもしれません。
こうして、仏教が目指す方向の転換が、寺院の建築と修行環境としての庭園が深くつながるようになるきっかけをもたらしたと言えそうです。平安京=京都の物理的な環境は、そのような動きがはっきりとした空間像を結ぶための格好のスクリーンを提供したのでしょう。

地理的にみると、平等院がある宇治は奈良と京都の中間に位置しています。奈良のにわから京都の庭園へ、時空をこえた宗教、空間、自然のかかわりとその移ろいに思いをはせる機会を、この場所でみつけてはどうでしょうか。
(文・宮城俊作)

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